僕は昭和30年代後半からこの地に住み、そしてこの地を見てきました。
現在の変わりゆく戸塚の都会的発展は目覚ましい限りですが、
逆に、今後失っていきかねない、いつまでも昔と変わらぬ風情を残す景観・情緒は、
定着している人々のやさしさとともに、大切にしていかなければならないものと考えています。
そんなノスタルジックな郷愁の念を、一枚の写真とともにつづっていこうと思います。
皆様もどうぞ、戸塚の風景を懐かしんでいってください。









東戸塚駅周辺                  1972年ごろ

駅の開業が決まり、土地の造成や工事が急ピッチで進む東戸塚駅周辺。当初この駅の想定乗降客は1日約2万5千人。およそ30年が経過した現在は、その約5倍の利用客があります。当時横須賀線が停まるようになったのは画期的出来事でしたが、今は一刻も早く東海道線も止まれるようにしないと、危なくて仕方ありません。もともと、飽和状態に発展した戸塚駅の混雑を解消すべく計画された駅でもありましたが、現在では東戸塚駅自身も飽和状態にあえいでいます。それにしても開業前のこのあたりはな~んにもなかった。あるのは山と土と広い空。僕は仕事の休み時間に会社の裏山で空を見ながら昼寝をするのが大好きでした。
新一開発興業(株)/(株)CSL 記録映画「甦える大地」より




平戸町                       1965年

僕は1970年ごろまで、会社の近くの平戸団地というところに住んでいました。2DKのいわゆる公団タイプの元祖のような住まい。会社は近かったですがとにかく駅は遠かったですね。戸塚駅までバスで30分はかかったでしょうか。そして新道と分岐する不動坂のところが混む混む。さらに駅に向かう柏尾川沿いの道が狭い狭い。到着時間がまばらで、時々電車に乗り遅れたりしてましたね。あと、会社の周りに何もないので、ちょっと一杯、というときはわざわざバスで戸塚に出ていたんです。飲みにいくのにバスで往復・・・・・・、なかなか風情がありました。





大正中学校                    1975年

僕の亡き妻と、その6人の兄弟全員が通い、さらにはその子供たち(つまり僕の甥や姪)までが通い、そして今ではその子供たち世代が通学するという、戸塚でもかなりの伝統を誇る地元中学。僕が原宿交差点の近くに事務所を構えていたこともあって、何かとご縁がありました。ちょうど70年代中盤のこの頃は、戸塚が都心のベッドタウンになり、ドーナツ化現象が進み、人口が急激に増えていった頃でもあります。大正中学もマンモス化が顕著で、確か、甥の世代は1学年で15クラスもあったとか。このあと分校して何とか乗り切ったものの、今度は高校の受け皿が少なくなるという、急激な人口増加に行政が追いつかない、そんな時代の象徴でもありました。





戸塚駅周辺の柏尾川             1970年

今ではなかなか信じがたいでしょうけど、この川、実はよく溢れてたんです。70年代はわりとしょっちゅう。特に記憶にあるうちで最大のものは1982年だったでしょうか。義姉の家が床上浸水し、ボートで避難するほどでした。その後この川は改良が進み、今では魚も棲むきれいな川となりましたが、戸塚駅や大船駅界隈で商業を営もうとする方々にとっては、この川はちょっと地理的にやっかいな存在でした。なんといっても駅のすぐそばが川なので、本来なら賑わう駅前商店街など、便宜的に作りにくかったわけです。だから再開発は長年の夢でもあったんですね。戸塚は今、東口も西口も最先端の複合商業都市に生まれ変わろうとしています。でも変わらずこの川は、そよそよと線路の隣を流れています。


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