躾ができない、いまの家庭
僕は福島で、農家の八人兄弟の三男坊として生まれました。僕の家は、一応裕福な農家だったようで、戦時中の激しい一時期には20人以上もの親戚縁者が疎開してきていました。当時、わんぱく盛りの小学生でしたが、学校も家庭も、躾、規律、道徳心に対する教えは大変に厳しかったことを覚えています。その上、祖父母は非常に教育熱心でした。僕の父方の兄弟は6人いて、いまでは大学進学も珍しいことではありませんが、当時としては珍しく、農家を継いだ父以外は、すべて大学に進学しています。
東京医大、早稲田、実践女子と、その時の教育事情を考えればすごいことだと改めて感じてしまいます。さらには東京の巣鴨に一軒家を借り受け、お手伝いさんまで雇って全員をそこに住まわせて学校に通わせたのです。このように教育熱心な、そして贅沢な環境にありました。
戦後は、農地解放によって三町村にまたがっていた約40万坪の僕の家の農地山林は開放され、裕福な農家だった時のような贅沢はできなくなりましたが、それでもその後、両親は苦労しながら僕を大学まで行かせてくれました。恵まれた環境で育ててくれたことを、両親、兄弟に感謝しないではいられません。
「義を見てせざるは勇無きなり」、ガキ大将はケンカもするけれど、弱い者いじめを一番嫌う、これが本当のガキ大将の定義だと思います。にせガキ大将が多い中、僕は子どものころから、曲がった事が大嫌いな、自他共に許す筋金入りのガキ大将だったようです。
また、姉と妹の間に挟まれていたせいか、小さいときから家畜の世話をよくする、人一倍気が優しい少年でもありました。鶏の世話をして、卵からヒナをかえしたり、乳牛の乳搾りをやったりで、農家は自給自足が原則ですから、それを実践する毎日を過ごしたわけです。馬も羊も豚も鶏もいて、ちょっとした動物園のようでした。
家事は兄弟の役割分担が決められていました。僕はいつも風呂焚きの係です。風呂を沸かすと言っても、いまのように水道の蛇口をひねれば水が出るという簡単なものではありません。井戸水を桶に汲んで一杯ずつ水を張っていくのです。これが結構重労働です。それが終ると薪をくべて火をつける。火吹き竹で「フー、フーッ」と思いきり息を吹き込みむと、風呂釜の火力が勢いを増します。灰と煙が顔にかかり、煙たいのと熱くなるのとを感じたものです。
取れたての新鮮な野菜を母が売りに行くリヤカーの後ろを押したこともあります。牛乳を配達してから学校に行くこともありました。また、姉たちが作る夕飯の手伝いもしました。そのためか、いまでは田舎の家庭料理をつくれば右にでる者はいないくらい、おいしくつくることができます。魚、野菜の煮付け、混ぜご飯、こんなのを時々つくっては、みんなに食べてもらうのを楽しみにしています。
福島では、部屋の真ん中の囲炉裏を囲んで家族で食事をしていました。みんなの座る場所は決まっています。当然ながら祖父、父は一番奥のいわゆる上座に座ります。僕は、土間に近いところに座ります。食事の時は、男も女も、あぐら座りをしたり、足を崩すことは許されません。気が緩んで足を崩そうものなら、「バシーッ」と鉄拳がとんできたりしたものです。それだけ、躾には厳しかったことを覚えています。
僕は、いまでも正座のみで、あぐら座りはできません。だから、何処へ行っても正座です。会食などで「足を楽にしてください」とよく言われます。「正座しかできません」と言うとみんなビックリします。それが身についてしまっているのです。
一人ひとり、各自のお膳で食事をとり、食事が終ればそれを持って片づける。これが一つの作法となって、昔の家庭の食文化を築いてきたのではないかと思います。暮らしのなかでの食事の場は、一日を無事過ごし、感謝の意味をこめて食べ物をいただく、そういう深い意味が含まれていたのではないでしょうか。食事は自然と礼儀作法を学びながら、感謝を体で味わう一種の家庭儀式の流れの中にあるように思えます。
戦後は、お膳の時代からテーブルに替わり、椅子の生活が主流になって食事は家族団らん、楽しむ場となりました。アメリカナイズされた楽しい食事を心掛けるスタイルを否定するわけではありませんが、躾の面の厳しさはむしろ昔の食事の環境を残しておいた方がいいと思います。
いまでは核家族化が定着し、子どもは一人か二人、両親は共働き、子どもは塾通いで、なかなか家族揃って食事を楽しむ時間がありません。楽しい会話は途切れてしまいます。もちろん躾もできません。家庭教育の場が段々と薄れてきて、いまではほとんど無いに等しくなってしまっています。このままでは、家庭教育の崩壊はますますひどくなってしまわないかと心配しています。
少年犯罪は社会の鏡と言われています。不安定な社会、家庭環境を映しだしていることは確かなようです。司法関係者は、「犯罪を犯す少年の家庭の特徴の一つに、父親の放任と母親の溺愛がある」と言っています。「無条件の愛で包む母性の役割と、社会のルールを教え、それを破った時の厳しさを教える父性の役割が必要だ」という指摘もされています。父親としての役割、母親としての役割、この二つの役割がいつの時代でも、子どもたちの育っていく過程で非常に大切だということを、社会全体で問い直してみてはどうでしょうか。
知・徳・体のバランス教育
長崎で、12歳の少年による幼児誘拐殺人事件が起きました。連日、ニュースや新聞で報じられ、衝撃の大きさは隠しようがありません。沖縄でも中学生による集団暴行事件がおきました。その他にも小学六年生の手錠監禁、埼玉の16歳少女をまき込んだ拉致殺人など信じられない犯罪が次々に起こり、それが低年齢化しています。僕たちは、人の命は地球よりも重いと教えられてきました。しかし、いまは命の尊さがことごとく軽んじられてしまっています。
長崎の事件では、少年が通っていた中学校の全校生徒に、事件による心身状態を調べるアンケートを行なったことを、ニュースが報じていました。それによると、四人に三人の生徒が事件が頭から離れないそうです。特に補導された少年と同じクラスの女子生徒にいたっては96%が事件が頭から離れないと答えています。また、半数の生徒が、「落ち込む」、「集中できない」、「事件のことを早く忘れたい」と、心の不安を訴えていることもわかりました。保護者の人たちからも傷ついた生徒たちの心のケアをどうしたらいいのか、受験に影響しないかなどの悩みが出されていました。
八年前の九五年、オウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件で、不幸にも当時、事件に見舞われた被害者の人たちは、いまでも地下鉄に乗ることができなかったり、エレベーターのように密閉されたところに恐怖を感じたり、また暗い部屋には居られないなど、何らかの影響が残り、心の不安を訴えているそうです。社会復帰ができずにカウンセリングを未だに続けている、本当に大変なことです。
思いも寄らない心の傷は、いつまでも痛手となって消えないのでしょうか。特に、子どもたちにとっては大人になる過程で受けた心の傷は、二十年、三十年と、癒えることもなく人生に計り知れない影響を及ぼすのではないかと、とても心配です。
これらの事件を考えたとき、どうしても「教育のあり方とは何か」という、教育の本質論に突き当たってしまうのです。「世の中、何かが狂っている」、原因は、やはり教育全般に起因するものがあると思います。地域、家庭、学校が一体となって、もう一度、教育の原点を見つめ直さなければなりません。
ありきたりで、古くて、そして誰でも思うことですが、「知育」「徳育」「体育」、この三つのバランスが、何一つ欠けても教育は成り立たないし、健全な人間形成はできないと思っています。しかし、知育偏重社会を受け入れざるを得ない社会環境が続く限り、この古くて当たり前と思われる教育の三本柱の必要性が、ほとんど忘れられ、軽視されてしまっているような気がしてなりません。
受験勉強やテレビの影響などで「知育」は非常に発達しています。体も昔と比較にならぬほど大きくなりました。心配なのは「徳育」です。徳育の欠落が今日の社会現象の歪みとなって表れていると言っても過言ではありません。夜遅くまで、子どもの外出を平気で許す無関心な親。家庭、学校教育の中で躾、規律、道徳心、生命の尊厳を改めて問い直してみる必要があります。子どもの健全なエネルギーの発散場所をつくっていく、そして善悪の判断がつかない未熟な青少年時代は、地域全体が子どもたちを注意して見守っていくことが必要なのです。
少年犯罪の多発化、非行の低年齢化を作り出しているのは大人の社会に問題があります。見て見ぬふりをするところに大人の無責任さがあるのです。高校生の喫煙を目撃しても、それを注意する大人は余りいません。注意をしたら、反対に文句を言われて暴力まで振るわれる。そのために命を落した事件も発生しています。だからと言って、知らない振りはできません。見て見ぬ振りをするよりも、みんなで注意を繰り返していくことが健全な子どもを育てるには大切なのです。「子どもは親の背中を見て育つ」、この意味を大人たちはもう一度よく考えてみることです。
子どもの心の乱れは社会現象となって表われます。子どもは国の宝です。問題の傷口が大きくならないうちに、健全な少年少女が育つ環境を、学校で、そして家庭で、みんなが作り出していくことを忘れてはなりません。
戦後教育を受けた子どもが、いまは親となり、そのときの教育の歪みがいまの形に表れているのではと思います。先生と生徒は友達だとか、親子仲よしの家庭を目標にしてきた戦後教育では、徳育教育ができる教師も親も少なくなってしまっているのが本当のところではないでしょうか。
教育は国家百年の大計を成す。それほど大切なことを、僕たち大人はもっと真剣に論じ、考えていかなければならないと思います。教育問題に関しては逃げ道は絶対にありません。中途半端な妥協が許されれば、必ずその反動が十倍、二十倍にもなってはね返ってきます。
少年による一連の事件は、いままで僕たちがなおざりにしてきた教育の原点を忘れて、それこそアンバランスな教育を行ってきた反動が現われてきているのではないかと思うのです。
現実と幻想の狭間で
12歳の少年による長崎の幼児誘拐殺人事件で、「今まで僕らは、何を教えてきたつもりだったのだろう。駿ちゃん、ごめんな」と、中学教諭を名乗る匿名の人物から、こんなワープロ打ちのメッセージが、幼児が殺害された立体駐車場脇に置かれていたと、新聞各紙に掲載されました。
駿ちゃん痛かったやろう怖かったやろう ごめんね
僕ら大人がこんだけまわりにいて、助けてあげられなくて、本当にごめんね
前の長崎はこんな感じじゃなかった
狭い街で、みんなの顔が、お互いに見えとった
いつの間にか、こがんなってしまっとったとやね ごめんね
私は中学校の教師をしています 中学校の教師として本当に申し訳ない
今まで僕らは何を生徒に教えとったつもりやったとやろう
駿くんのことを 生徒と一緒に語り合いました
そして、このような「命」を「命」と思わない心、
自分自身の中にもあるかもしれない邪悪な心と対決していく誓いを交わしました
私が教師である限り、人間である限り、長崎市民であるかぎり、それを続けます
たとえ何年たっても、近くに来たときには、君に会いに来ます お祈りにきます
だから駿ちゃん ごめんな 本当に ごめんな
匿名教諭のメッセージです。新聞等で読んだ人もあると思います。このように、教師のそして大人たちの無関心、無責任さに対する反省の気持ちが中学教論のメッセージには切々と綴られていました。12歳では少年法によって犯罪は認められていません。少年法を改正すれば解決できる問題なのかと言うとそうでもありません。教育の本質がどこにあるのかを、この教諭のように一人ひとりが真剣に考えて欲しいと思うのです。
事件を起こした少年は成績もよく、ごく普通だったと言います。それがどうしてこんなことをと、思わずにはいられません。いまの少年たちに潜んでいる問題がどこにあるのかを解きほぐしていかなければならないと思います。
僕たちの少年時代は泥まみれ、汗まみれで遊び回りました。ケンカをして痛い目をみたこともあります。でも、その中で一定のルールがありました。殺すまで相手を痛めつけようなどと思ったことはありません。ケンカの中にも「いたわり」があったのです。勝つことを知って、そして負ける悔しさも知りました。たたかれれば痛いと感じます。自分の痛みを知ることで相手の痛みも知ります。体全体でそれを感じていたのです。
いまの子どもたちは、ケンカをしません。教師も親もさせません。外でもあまり遊ばずに、主にパソコンにかじりついて、バーチャル(幻想)の世界で格闘技やレーシングゲームに熱中しています。相手を痛めつけても、痛めつけられても本当の痛みを感じません。そして、最後には絶対勝つようにプログラムされている。これが遊び相手のパソコンなのです。また、鶏を育てていくゲームもあります。失敗すると平気で殺してしまう。命の尊さも、痛みもすべてゲームの中に閉じ込めてしまう。そして、いつの間にか現実と幻想の狭間で、いつしか自分を見失い相手のことも考えられなくなってしまう。とても恐ろしいことだと思います。
山下さんとの教育議論
僕は、大学の後輩でもあり、教育改革国民会議の委員も務めている柔道の山下泰裕さんと、教育問題についての意見交換をさせてもらっています。山下さんは柔道の指導者であると共に、大学の教授でもあります。その山下さんと、生きた教育とは何か、そして人間関係の大切さについて、話をしたことがあります。
山下さんはこれからの世の中は人づくりが大切で、人材育成が欠かせないと指摘しています。「今の教育は、知識の詰め込みでしかない。いい大学、いい会社に入るための知識を得るためのものでしかない。実社会で自分が充実した実りある人生を生きていくためよりも、大学や会社に入るためという部分が強くて、本当に生きた教育がなされていないというのを感じる。大事なのは、知識を詰め込む事ではなく子どもたちの知識を育てる事、はぐくむ事。はぐくみ、育てる中で確かにいろいろな知識を教えていく事はすごく大事だ。しかし、それだけではなく、やはり人間性を高める事が一番大切だ」と言い切っています。僕もその通りだと思います。
僕たちの育った時代はとてもハングリーで、遊びも一生懸命、勉強も一生懸命、何でも夢中でやってきました。ところが、いまは夢中になるもの、燃えるものが無いのかなと思ってしまいます。「冷めてる」とでも言うのでしょうか。これが人間性を高めるための障壁になっている大きな問題なのかなと思うのです。
山下さんは「いまの子どもたちを見ていて、何のために自分がいるのか、人生の中で何をやっていきたいのか、いかに生きていくべきか、人間としての基本的な人格、人間性というような部分が軽視されて横に置かれているような気がする。世の中が自分本位になっている。エゴ(エゴイズム)になっているからだと思う。競争、競争で人を見下している。そして、自分さえ良ければいい。自分の会社さえ良ければ、自分の学校さえ良ければいいという感じになってきている」と語っています。
なにしろ少子化で、いまの家庭は子どもが少ない。育つ環境の中で、まず競争しようにも相手が全然いない。無理に大人が後から競争を押しつけるものだから、子どもがいびつになってきている、そんなような気がします。
失った感謝の気持ち
山下さんの教育論は、いつ話をしていてもハッキリしていて分かりやすいのです。そして聞いている人を納得させる強い力を持っています。話はいつも尽きることはありません。だから、僕は山下さんと会うのをいつも楽しみにしています。山下さんとの話を要約しながら、僕が思っている教育についての考えをまとめてみました。
いまの子どもたちは自分の立場でしか物事を考えられないと言います。教育する立場の大人たちもそうかも知れませんが、とにかく相手の立場に立って物事を考えることができなくなっています。だから、困った人がいる時にも助けてあげられない。そういう気持ちになれない。言い方を変えると、他人の痛みが理解できないのです。そういう意味ではかわいそうな、寂しい子どもが増えてきています。もう一つ言うと大人もそうですが、子どもたちも青少年も、目を輝やかせて夢を持って生きている人が少ないように思います。
先生が悪い、親が悪い、社会が悪い、子どもが悪い、ではなくて自分の問題として、それに対して自分はどうやって対処していくか、自分がやる事は何かと考えて、責任を自覚していかないと自分に対して良くない気がします。
教育というのは、すぐに効果がでるものではありません。しかし、いまの子どもたちは20年後、30年後には確実に日本を背負っていかなくてはならないのです。もともと日本人というのは勤勉で真面目で頑張りやです。それがあって、いまの繁栄があるわけですから、このことを考えると、いま、しっかりとした教育を怠ると、大変なことになってしまいます。
僕が子どものときには「白いご飯をお腹いっぱい食べたい」という大きな夢がありました。日本は戦争に負けて貧乏でしたから、何もありません。しかし、いまはいつでもどこでも何でも手に入ってしまう。そうすると、白いご飯はもう夢ではありません。当たり前になってしまっています。その当たり前ということを、もう一度考え直す、それが教育だと思います。
「当たり前」というものに感謝する気持ちがいつのまにか無くなってしまいました。戦後、頑張った人たちの努力があっていまがある。それが分かると、いまの「当たり前」に対して感謝の気持ちが出てきます。そうすると自然と、周りの人に対しても感謝の気持ちが出てくると思うのです。
人はさらに前進するために、必死に努力を重ねます。そして努力したことで成功すれば、その努力に対して感謝します。反対に、失敗したり間違った事をしてしまったならば、ためらわずに反省する事ができます。
僕は反省というのは、いろいろな事を含めて、将来へ向かっての大きな礎となるものだと思うのです。その反省というのが、いまの子どもたちには、ちゃんとできていないのではないでしょうか。子どもたちは自分の立場だけで、弁解じみた事ばかり言っているような気がします。弁解ばかりではなく、何がいけなかったのかを考え、どうしたらいいかを真剣に悩んでみて、解答をださせる教育も必要ではないかと思います。
友達を批判したりいじめに走ったりする。これらの間違った行為の本質は、自分本位の考えしか持てない所にあると思います。相手への思いやり、感謝の気持ちが持てなければ、自分自身も成長できるわけがありません。日本の明日を背負う大切な子どもたちです。信頼関係を醸成していく大切さを教えることこそが、教育の基本にはあると思います。
教師にも改革が必要
山下さんはオリンピックの代表選手を教えるばかりではなく、子どもたちにも柔道を教えています。僕は、柔道を通じて何を学んで欲しいかを聞いてみました。
山下さんは「柔道も塾も学校も、もちろん大事だが、いろいろな事を通じて『相手を敬う気持ち』を学んでいって欲しいと思うし、育てていって欲しい。例えば、柔道は二人でやる。そこでは当然、相手を敬うことが大切だ。それが『礼』である。そうすると、そこに思いやり、感謝という気持ちが出てくる。それから、試合に臨む時には緊張もする。その緊張に打ち勝っていく勇気。目標に向かって継続的に頑張っていく。試合で負けたり、ケガをしたりもする。そういう時、困難に打ち勝っていく気持ち、そういうものを学んでいってくれたらと思う。指導者の人も、単に体を鍛えた、試合に勝った、負けただけではなく、これからの人生に役に立つ様な教え方をして欲しいと思う。これは柔道だけでなく、何にでも言えると思う。そして教育の本質というのは、知識を知恵に生かしていく事だ。自分の実生活に生かしていく事だ。そのためにはやはり、実体験がないと駄目だと思う。生きた教育、生きた授業。教室の机にかじりついているだけでなく、いかに現実に結びつけていくかが大切だ。
五、六年前の理論をずっと繰り返しているだけでは駄目。今の世の中と照らし合わせていく事が必要だ。こういう変革の時代だから、先生方も時代の流れを感じ取らなければいけないし、それと同時に時代は変わっても変えてはいけないもの、不変のものも大事にしていかなければいけない。その不変のものは何かと考えた時に、それは知識ではないと思う。人が充実した人生を送っていくために必要な価値観とか人格とか徳育とか、あるいは自分の人生について考える事とか、そういうところを先生方が伝えていくべきだ。
教育のあり方、知識などは時代とともに変わっていく。理論だけではなく生きた教育、現実に密着した教育というのを求めていかないといけない。」
僕は、山下さんの話に、何だか柔道の極意を伝授されたような気がしました。確かに時代は大きく変わろうとしています。先生方も教科書通り、いつまでも同じ事ばかり教えていたのでは進歩がありません。
いまはテレビや雑誌、あらゆるところから様々な情報が簡単に入ってきます。ゼロから、いろいろなものを吸収しようという努力や感覚がないんです。努力もせず簡単に入ってきた知識は簡単に出ていってしまいますから、あまり身につかないわけです。
山下さんは「大学で学生を指導していても、このままじゃいかんな。変わって欲しいなという時に、学生本人にそういう意識がない。その学生に対して、どう言ったら感じ取ってくれるかなと考える」と言います。「正論を言っても結局、自分のいまの価値観や立場で自分を守りながら言っているだけで、それでは相手の心に響いてこない。これからは、教員の人も自分が中心でやっていくのではなく、学生を中心にしながら学生一人ひとりの心に伝わるような響くような、心のこもった授業というものを、そういう教育をしていく時なのではないか」と言っています。
いまは、相手が目上の人だろうと会社の上司だろうと関係ないと思っている人が多いようです。みんな友達づき合いで、素直だとか感謝だとか、そういう心が薄れてきているように思います。アメリカナイズされたグローバルな世界を求めた教育とでも言うのでしょうか。
日本には、明治時代に文明開化がありました。それから痛ましい戦争があり、復興著しい戦後がありました。そしていまは新たな時代へと移り、挑戦の時期なのではないでしょうか。その中でも一番大切なのは、やはり教育です。日本の教育そのものを、もう一度原点に戻って見直していく必要があると思っています。
2003年9月出版本「日本の進むべき道」より転載
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