闘い続ける 前・衆議院議員田中けいしゅう

01 駅頭ウォッチング


 朝の挨拶が第一歩

「早起きは三文の徳」と言うことわざがあります。早起きとはいったい何時をさすのか、どうして徳が三文なのかはわかりませんが、ことわざ辞典によれば、「健康的で、爽快な気分が味わえる朝の早起きは何かしらの値打ちがある」とあります。
 確かに早起きをすると得した気分になりますし、健康にもよい感じがします。歳を重ねると段々早起きが習慣になり、若いときに比べて就寝時間も短くなって、長い時間寝ていることができなくなります。これは医学的に根拠があることなのでしょうが、難しいことは専門家に任せるとして、とにかく、誰でも朝の時間を有効に使うと一日が充実して過ごすことができ、得した気分になります。早起きして損したと思う人はいないでしょう。是非みなさんも早起きの習慣を身につけてください。

 限られた一日を有効に使うために、僕はこの時間帯に駅頭立ちをします。選挙が近づいたり選挙期間中だけ、自分の公約を有権者に訴えて、何とか名前と顔を覚えてもらおうと、特に熱がこもって必死に演説する政治家もいます。こういう政治家は選挙が終わると、まったくと言っていいほど駅頭立ちをやらなくなってしまいます。議員活動が忙しくなるからとの理由もありますが、そういう政治家は駅頭立ちを選挙戦略の一環だとしか考えていないのでしょう。
 僕は政治生活の道に入ってから今まで、6年間の浪人生活を含めて一度として朝の駅頭立ちを欠かしたことがありません。たとえば、先週は戸塚駅前、今週は瀬谷駅前とスケジュールをキチンと決めています。天候に左右されることもなく、雨の日も雪の日も、台風が来たときでも、可能な限り朝の駅頭立ちを欠かさないようにしています。

「朝早くから駅頭立ちしても、誰も聞いてくれないよ」と言われたり、「ご苦労さまによくやるよ」と皮肉まじりに言われることもあります。僕が朝の駅頭立ちを欠かさないのは、二つの理由があります。
 その一つは、前にも述べたように「早起きは三文の徳」です。特に、健康維持には早起きは三文どころか、金銭には換えがたいものがあると思っています。自然と早起きができる生活習慣が身についたり、早起きして病気にならないように注意をすることで、丈夫でいられることが一番の得になると信じているからです。
 そして、もう一つは朝の通勤、通学の時間帯は国民、市民の暮らしを肌で感じることができるからです。実は、政治家にとってこれが一番大切なことなのです。政治家は机の前で、国会の中で、ああでもない、こうでもないと、理屈ばかりを並べ立てていても、国民を幸せにするいい法律など浮かんできません。
 法律には政府が提出する「政府立法」と、僕たち国会議員が提出する「議員立法」とがあります。「議員立法」は比較的国民の意思を汲んだものが法案の形で提出されていますが、政府が提出する法案はどうしても世間知らずの役人が立案するためか、実生活と掛け離れたものができてしまうところがあります。国民の暮らし向きが分からなければ、法案の中身を審議することも、不都合な部分を修正することもできません。

 

 駅頭立ちが大切なわけ

 僕は「現場主義」に徹することが政治の基本だと常に思っています。その意味でも朝の駅頭立ちを大切にしているのです。
 通勤、通学する人たちと挨拶を交わし、その人たちの顔色や足取りを見ていると、社会のあり方が大体分かってきます。これは、何十年と同じ場所で、同じ時間の経過を繰り返し見続けていなければ分からないことなのです。

 顔見知りの人がいます。「お早う」と声を掛けられます。とても嬉しくなります。まったく知らない人もいます。そのような人には、逆に「お早うございます。行ってらっしゃい」と元気よく声を掛け、見送ります。まったく知らない人でも今度からは顔見知りになれます。こんなに楽しいことはありません。
 何気ない朝の挨拶の繰り返しの中で、フッと、気にかかることがあります。それは、「みんなそれぞれ悩みを抱えているのかな」と感じるときがあるからです。

 うつむき加減で改札に向かう人、「よいしょ、よいしょ」と大儀そうに階段を昇る人。いつもより足取りが重そうだな、きょうは顔色がさえないな、明るい色のネクタイでさわやかだな、マスクをして風邪をひいたのかな、送りの車が新しくなったな、そんなことを目にしながら駅頭立ちをしています。

 人は、どんなに幸せそうに見えても何らかの悩みを抱えて生きているものです。どんなに些細と思われることでも、悩みの感じ方は人それぞれです。その人にとっての悩みごとが、どれほど重大なことなのか他人には分かりませんが、ある人は、会社での営業成績の不振を悩んでいるかも知れません。リストラでなかなか職がみつからない人もいます。家族の介護や病気で疲れ果てている人、あるいは進学、受験勉強、恋人との恋愛問題などなどです。
 とにかく人の数だけ悩みがあります。苦悩があります。反面、喜びだってあるはずです。悲しみに落ち込んだとき、喜び勇んだとき、人は気がつかないうちに、喜怒哀楽をしぐさや身体や身の回りなど、どこかに表しているものなのです。

 僕にとっての駅頭立ちは、社会の動きを知るための政治家としての基本だと思っています。僕は柔道五段ですが、ちょうど柔道で言う、受け身のようなものです。柔道の基本、受け身を怠れば思わぬケガをします。これと同じで、駅頭立ちをおろそかにすれば社会全体がどうなっているかを把握することができず、致命的な判断ミスを起こします。社会の動きが分からなければ、国民の暮らしも分かりません。分からなければ、いい政治はできません。政治家失格です。

「お早うございます。いってらっしゃい、ご苦労さま。きょうも一日、頑張ってきてください」と、会社に、学校に向かうみなさんの後ろ姿に、元気な声を掛けさせていただいています

 

 デフレの流れを逆転させる

 いま、日本国民はとても苦悩しています。苦悩と痛みを嫌というほど味わう中で多くの失業者が出ています。総務省が発表した昨年度の失業者数は三百八十万人を超えてしまいました。この中で倒産、解雇、定年退職などの非自発的失業者(自分の意志に反して辞めざるを得なかった人)、これは僕が住んでいる横浜市の人口よりも多いのです。この数はつまり、赤ちゃんからお年寄りまで、横浜市民の全員が、働きたくても職がないという状態です。国が掴んでいる数だけで380万人ですから、実際にはもっと多いと思います。
 みなさんの周りを見渡してみてください。近所や知り合いの人に、きっと失業中の人がいるはずです。景気の低迷で雇用も難しくなっています。そして倒産もおさまることを知りません。こんな状態が小泉首相になってからは、特に顕著になって表れてきています。
 たとえ、無事に職場にありつけていても、平均所得は5年連続で減り続けています。特に40歳代の子育てや教育、住宅ローンを抱えた世代は大変です。昨年の生活基礎調査(保健、医療、福祉、年金、所得などに関する国民生活の調査。約四万六千世帯を対象に公的年金の受給状況や生活意識などを調査した)では、生活を「大変苦しい」と感じている世帯が22・2%、「やや苦しい」が31・6%で、半数以上の家庭が「苦しい」と答えているのです。
 給料は下がる、職はない、不景気の影響が浮き彫りになっています。それなのに、サラリーマン本人の医療費が上がり、ボーナスからも総報酬制で社会保険料が引かれる。年金も発泡酒もたばこも値上げで、実質税負担が重くのしかかってきています。それでも国の借金は増え続けて668兆円にもなって、これは国民一人当たりにすると525万円に相当します。平均的な四人家族だと一家が2100万円の借金を抱えている計算になります。これが、一向に減る気配がないのです。こんな借金、誰も返せません。

 小泉首相は、財政再建路線を掲げたにもかかわらず、国の台所事情の厳しさを増しているのが分かったと思います。景気の回復はGDP(国内総生産)の6割を占める個人消費にかかっています。ですから、買い物をたくさんして、おカネを使わないと景気はよくならないのです。それなのに、国は個人消費を活発にすることよりも、足りなくなった税金を先に取ることだけを考えています。
 僕は、国のやっていることは逆だと思っています。増税すれば余計に財布のヒモは固くなり、買い物ができなくなってしまいます。買い物をしなければ店の売上げも、会社の売上げも伸びません。そうすれば給料も上がらず、国民(消費者)は買い物を控えてしまいます。その結果、税収も減ってしまいます。そうすると、国は新たな税源を見つけ出し、そこに課税して税収を増やそうとします。そうすると、消費者はまた買い物ができなくなります。これがいわゆるデフレスパイラル、負の連鎖と言われるものになっていくのです。デフレの克服を国が言っておきながら、実は国自身が増税でデフレを加速させているのです。僕は、アメリカのように思いきった減税をして、デフレの流れを逆回りにさせない限り、国民の暮らしはよくならないと思っています。

 

 景気の善し悪しを見分けること

 小泉首相は、政治家として国民の暮らしの心配を肌で感じたことがあるのでしょうか。僕は、多分ないと思います。肌で感じていたら、もっと経済の実態が分かって、国民の暮らし向きや苦労が分かって、デフレを加速させるようなことはしないと思います。
 改革を進める小泉首相は「痛み」に耐えろ、と言います。江戸時代に、痛みに耐え、我慢したことによってその後、長岡藩に繁栄をもたらした「米百俵」の話も、小泉首相のお陰で全国に知れわたるようになりました。この話を聞いて、多くの人は痛みに耐えようと、本当に思ったのではないでしょうか。正直に言うと、僕も一時期そう思ったことがありました。

 平成15年4月25日、東京に「六本木ヒルズ」がオープンしました。僕も行ってみましたが、世界を代表する高級レストランが軒を連ね、まったく新しい都市空間が生まれて景観が一変してしまいました。日本にいると言うより、まるで外国に来たと思われるくらいです。都市開発の必要性を物すごく感じさせられました。
 ひと足さきに東京駅前の新丸ビルも装い新たにオープンしています。普段はサラリーマンで賑わう丸ビル周辺も、会社が休みの土日は閑散としてしまう。この丸の内の一等地を何とかできないかと、一大プロジェクトのもと、世界でも有名なショップをテナントに迎え、若者から年配の人たちまでが楽しめる新感覚の街をつくりあげました。
 小泉首相の発言についてこんなことが新聞に載っていました。『小泉首相は「不況、不況というが、新丸ビルや六本木ヒルズを見たらいい。大盛況だ。」長引く不況にあえぐ人々からみれば、耐え難い発言だが、性格ゆえの「痛み」に対する不感症だと指摘することもできる』、と。

 小泉首相のことばの真意は分かりませんが、これが本当なら、僕は首相が日本経済の苦境の本質を分からないがゆえの発言ではないかと、思えてなりません。
 首相は趣味とする歌舞伎やオペラ鑑賞を、時間を割いてよく観に行くことが報じられています。少なくても、この華やかな世界からは日本の不況を感じることはできないでしょう。六本木ヒルズも新丸ビルも華やかさでは負けていません。華やかだから景気がいいと思い、浮かれてしまう危うさに、僕は新聞に書かれている首相のことばには、「やはり景気の痛みに対する不感症は本物なのかな」と、感じないではいられないのです。

 景気の判断として、月例経済報告があります。平成15年6月の月例経済報告では「景気はおおむね横ばいとなっているが、引き続き不透明感がみられる」と表現しています。また、竹中大臣は「大局的には緩やかな持ち直しの動きの中での踊り場的状況」と述べて、「景気がこのまま腰折れするとは考えていない」とも言っています。前の尾身大臣も「桜の花咲くころに景気が回復する」と言ったり、また当時の大臣、堺屋さんも「夜明け前が一番暗い」と表現したり、「もうすぐトンネルを抜ける」などと、夜明け前とか、トンネルを通過したりで、島崎藤村や川端康成の小説を思い起こさせる名文句には、本当に感心させられます。ただ、この報告の表現からは、国民の多くが景況感の実感を直に感じているとはどうしても思えないのです。

 同じく、景気を判断するのに景気ウォッチャーがあります。調査は景気に敏感な庶民生活に密着したタクシーの運転手の声や飲食店などの利用状況から景気を判断しようとするもので、消費動向を調べるのには結構役にたちます。たとえば5月の景気ウォッチャーによると、前の月に比べて景況感の悪化は2ヶ月連続となっています。要するに、「先月も今月も、客はカネを使わなかった」と言うことです。月例経済報告と、景気ウォッチャーを比べると、暮らしに直結しているウォッチャーの方がとても分かりやすい感じがします。
 
 日本一の繁華街、銀座を歩いてみれば相変わらずの人の波です。三越、松屋など、デパートや専門店が建ち並ぶ銀座の表通りを見ているだけでは、小泉首相のように「これでどうして景気が悪いの」と言ってしまうかも知れません。しかし、上辺だけを見ていても本当の景気は分からないと思います。
 社用族が利用する銀座のクラブも、バブルのときと比べたらどのくらい客が減っているのでしょう。銀座をよく知る人は、クラブがひしめく銀座の裏通りを歩くと、店の案内看板や人の動き、待ち車の混み具合で景気の善し悪しが分かるといいます。どうも、銀座は日本経済のバロメーターになるようです。それによると、景気はぜんぜんよくなっていないと、その人は言っています。
 大手企業はリストラや経費の削減、仕入れの大幅減額で最高の利益をだしました。それは、数字上の利益であって、利益の恩恵は市場にも国民の暮らしにも回ってきているとは思えません。中小・零細企業のほとんどは、大手企業の好況感の恩恵を受けていないのが本当のところなのです。
 僕は、景気の善し悪しは、数字だけでは一概に判断できるものではないと思っています。実態経済とはそのようなものではないでしょうか。
 
 僕の家の近所では、とれたての路地野菜を売っている直売所があります。「できがいいからよく売れるよ」とか、また、近所のお寿司屋さんでも「きょうのマグロは最高だね」と、周りの人たちの元気のよさ、日々の暮らしを見て、そしてそれを肌で感じることで、本当に景気判断ができるのだと思っています。
 会社が儲かれば給料が上がり、おいしいものを食べ、きれいな洋服も着られて、楽しい旅行にも行くことができます。持ち家も夢ではありません。身体中から活気が湧いてきます。

 僕は「現場主義」に徹することが第一だと思っています。通勤、通学する人たちと挨拶を交わし、その人たちの顔色や足取りを見ていると、社会のあり方が大体分かってきます。何十年と同じ場所で、同じ時間の経過を繰り返し見続けていなければ分からないことなのです。その意味でも朝の駅頭立ちを大切にしているのです。
 僕の駅頭立ちは景気、暮らしの善し悪しを見分ける一種の景気ウォッチャーならぬ、駅頭ウォッチャーとでも言えるものなのかも知れません。

2003年9月出版本「日本の進むべき道」より転載